山々にぐるっと囲まれた盆地の村。すり鉢状になった景観を見て、つい巨大なとろろでもすったら美味しそうだなと思ってしまったのは、やや食い意地が張っていたかもしれません。ただ、きっと昔の人も考えることは似たり寄ったりだったはず。この地域はパンチボウル村と呼ばれているのですが、そのパンチボウルというのがフルーツたっぷりのシェアして味わうカクテルのこと。名付け親は朝鮮戦争時に従軍した記者さんだそうですが、この地形に巨大なフルーツをたっぷり盛り付けたら美味しそうだな、と思ったに違いありません。実際は朝鮮戦争時にも激しい戦闘があり、またこの写真を撮っているすぐ裏手が北朝鮮との軍事分界線なので、少々ものものしい雰囲気ではあるんですけどね。 とはいえ南北を分かつ軍事分界線付近は、人の往来も少ないことから、韓国では汚染の進みにくい農業に適した地域との認識があります。江原道楊口(ヤング)郡に位置するパンチボウル村も例外でなく、さまざまな農作物を栽培。その中でも全国に名前を轟かせているのがシレギです。 シレギとは乾燥させた大根の葉っぱのこと。韓国ではキムジャンといって冬に大量のキムチを漬ける習慣があるため、その時期になると大根の葉っぱが大量に残るんですよね。それを干しておいて、少しずつごはんのおかずに利用するという生活の知恵。古くから伝わる伝統的な保存食品がシレギです。楊口のパンチボウル村ではそれをさらに一歩進め、シレギのためにシレギを作ったというのが画期的なところ。具体的には大根が大きく育つ手前の段階、まだ葉が柔らかいうちに収穫をし、食感を活かしたというところに価値があります。現在はパンチボウルシレギとしてブランド化され、この地域を象徴する名産品として知られるようになりました。 楊口のパンチボウル村では名産のシレギを買って持ち帰れるようにもなっていますし、2012年にはシレギ専門の飲食店「シレウォン」もオープン。1人前1万ウォン(約1040円)というリーズナブルな価格で、バリエーションに富んだシレギ定食を味わえます。写真はもっともポピュラーな調理法のひとつで、右下にあるのがシレギのナムル。柔らかく煮戻してからゴマ油で炒めて作る香ばしい風味の一品です。この日はワラビ、ハナウド、シイタケのナムルと一緒に盛り合わせで登場しました。このナムルはそのまま食べてもいいですし……。 シレギを炊き込んだごはんに載せ、ビビンバのように混ぜて食べてもよいとのこと。ナムルに味がついているのと、シレギごはんのほんのり枯れたような懐かしい風味を活かしたいので、薬味醤油は加減をしながら少なめをおすすめします。むしろなくてもいいぐらいでもありますが、ちょっと入れると味の輪郭がキリッとするので、それはそれで捨てがたいという感じでしょうか。 じっくり煮込んで実力を発揮するのがシレギの特徴。テンジャンチゲ(味噌チゲ)のような汁物によく使われる食材です。よく煮込まれてくたくたですが、そのうえでさらに茎の部分まで細く柔らかいのがパンチボウルシレギの大きな魅力。口当たりが柔らかいというか、スープにとろけるような一体感があります。 個人的にヒットだったのがこのシレギタッチム(シレギと鶏の煮込み)。シレギは乾物だけあって汁気をよく吸うんですよね。鶏から出たダシをシレギがいっぱいに吸い込んで、鶏肉そのものを食べるよりも「鶏っ!」という感じです。 こちらはシレギと関係ありませんでしたが、ちょうど4月だったので旬のアスパラガスが出ていました。これもパンチボウル地区の特産品。産地だけあってさすが鮮度を感じさせる味わいで、トウモロコシを思わせるほどに濃い甘味が印象的でしたね。 最後のシメはシレギごはんのオコゲに、水を注いで煮込んだシレギ風味のスンニュン(オコゲ湯)。韓国では釜でごはんを炊くと、スンニュンを作って食後のお茶がわりにします。ここにもしっかりシレギの風味が溶け込んで、なんとも心落ち着く味わい。シレギを心ゆくまで満喫し、幸せな余韻に浸れました。 ソウルから楊口までは高速バスで2時間程度。江原道の玄関口である春川(チュンチョン)からも1時間少々で到着します。北朝鮮との境というと果ての地域といったイメージもありますが、パンチボウル村を見学しつつ、名産のシレギに舌鼓を打っても日帰りは充分に可能かと。ぜひ1度、足を運んでみてください。【データ】店名:シレウォン(시래원)住所:江原道楊口郡南面烽火山路457(桃村里192-13)住所:강원도 양구군 남면 봉화산로 457(도촌리 192-13)Tel:033-481-4200 八田 靖史1999年より韓国に留学し、韓国料理の魅力にどっぷりとハマる。2001年より執筆活動を開始し、最近は講演や、企業のアドバイザー、グルメツアーのプロデュースも行う。著書に『魅力探求!韓国料理』(小学館)、『八田靖史と韓国全土で味わう 絶品!ぶっちぎり108料理』(三五館)ほか多数。ウェブサイト「韓食生活」を運営。2015年より慶尚北道栄州(ヨンジュ)市広報大使。