ヘルファイヤー・パス…。カンチャナブリへ来てちょこちょこ名前は聞くものどんなところかちゃんと分かっていなかった場所です。行ってみて分かったこと、それはこのヘルファイヤー・パスをはじめとするビルマへの鉄道は日本と非常に縁の深いものだったということです。
こちらがヘルファイヤー・パスの入口。一見何もないように見えますが、道なりに進んでいくとまだ新しい建物が見えるのでその中へ入りましょう。ここはヘルファイヤー・パス・メモリアル博物館となっていて、受付に行くと日本語の小冊子が手渡され、日本語の説明が聞けるオーディオセットがレンタルできます。
また、なぜかトランシーバーも手渡されます…実はヘルファイヤー・パスだけを見るのであれば片道約300mの距離なので何の問題もないのですが、遊歩道を最後まで行こうとすると片道約4kmありまして、さらに舗装されているものの足場が悪いところがあるので、万が一の連絡手段らしいです…先にミュージアム内を見学し、いざヘルファイヤー・パスへ向います。
と、その前にヘルファイヤー・パスとは何なのか!?そこからお話していこうと思います。
<タイからビルマ(ミャンマー)までの鉄道(泰緬鉄道)計画>
1941年12月、日本軍のハワイ真珠湾攻撃とマラヤ侵攻によって太平洋戦争が勃発したことは学校で勉強したと思います。そして1942年半ば、日本軍はインドの防御を最終目的とする英軍とビルマで戦っていました。ビルマでの軍隊を維持するために物資の供給ラインが必要だった訳です。当時、周辺の海域は米軍が牛耳っており海路による物資供給は困難を極めていました。そこで日本軍はタイのバンポンからビルマのタンビュザヤまで、ジャングルと山を通過する全長415kmの鉄道を建設することを決めたのです。(なお、この鉄道計画は以前、英軍が遂行していたものでジャングルと山を切り開くのは不可能と破棄されたものでした。)
<鉄道建設にあたって>
鉄道を建設するために日本軍は約27万人のアジア人労働者と6万人を超えるオーストラリア人、イギリス人、オランダ人、アメリカ人の戦争捕虜からなる多国籍の労働力を集めました。路線の敷設作業は1942年に南ビルマ、タイの両側から開始され、1943年10月16日にタイのコンコイタイで連結しました。英軍の計画では6年の歳月を要するとしていたものをたった15か月でやってのけてしまった訳です。
周りがジャングルや山であったために敷設作業では最新鋭の機器はほとんど使用できず、土と岩をシャベル、つるはし、くわで崩しバケットやサックで運びます。石と土の堤防は人力で積み上げていきました。人力で岩を切断し、金属ねじタップと大ハンマーを使って穴を掘り、そこにダイナマイトを仕掛けて爆発させていくのでした…。
<「スピードー」という時期>
1943年8月完成の命令を受けた日本軍により工事のペースは一気に速められます。これが「スピードー」と呼ばれる時期で、捕虜とアジア人労働者は長時間労働を強いられました。この時期はちょうど雨季と重なり、コレラの蔓延により多くの死者を出したそうです。ヘルファイヤー・パスという名前は痩せ衰えた労働者を照らし出す焚き火の明かりにちなんで「コンユウの切通し」(作業が一番困難だったとされる場所)に付けられました。それだけ昼夜問わず作業が行われていた訳です。
<犠牲になった方々>
鉄道敷設の労働をした6万人の戦争捕虜のうち、約20%にあたる1万2399人が死亡し、7~9万の市民労働者が死亡したと考えられています。これほどまでに死亡率が高かったのは、まともな食料の不足と不十分な医療施設が主な原因ですが、近衛(官人)と鉄道監督者による容赦ない扱いがあったからでもあるそうです。
と、パンフレットを抜粋して説明しましたが、この上で完成したのが泰緬鉄道な訳です。そしてこちらがヘルファイヤー・パス(コンユウの切通し)、現在は線路が撤去されていてほんの一部分だけ復元されていました。
こちらはところどころに残る枕木。もちろん当時のものです。
こちらは側面に残る折れたドリルの先端部分。こちらも当時のものです。
こちらは砕いた岩を運ぶのに使われたトロッコ。
上から見るとこんな感じです。これだけの岩を餓えと病気に苦しみながら手作業で切り開いたことを考えるとぞっとします…。それでも写真だとその場の空気感までお伝えすることができないのが心苦しいところでもありますね。
先ほども書いた通り、メモリアル博物館からヘルファイヤー・パスまでは片道約300mの距離にありますが、遊歩道の全長は約4kmあり、その途中途中に切通しや土手、構脚橋の跡を見ることができます。ヘルファイヤー・パスだけを見て帰る人も多いのですが、これら全てが手作業で行われていたことを考えながらこの遊歩道を歩いてみることをおすすめします。オーディオセットから流れてくる説明はここでは書ききれないくらい残虐なもので、同じ日本人が行なったものかと思うと心が痛くなりました。また、これだけの規模の物が命令1つで現実となってしまう戦争というもとの恐ろしさを改めて知ることとなりました。