映画『アガサ愛の失踪事件』に登場したハロゲイト
18〜19世紀に王侯貴族たちがこぞって訪れたバースBath(第2・3回で紹介)が、南イングランドの高級温泉保養地だったとすれば、17〜19世紀、北イングランドのスパタウン(高級温泉保養地)として有名だったのがハロゲイトHarrogateです。
ハロゲイトは、前回ご紹介した中世都市ヨークYorkからは列車で約40分の距離。ノースヨークシャー地方の拠点となる町の一つです。人口は約7万3000人(2013年)。国際会議などもしばしば開かれ、2014年には、「ツールドフランス」の第1ステージの出発点にもなりました。私が訪れた9月にはその痕跡がまだ町の中に残っており、宿泊したクラウンホテルにも、「ツールドフランス」開催時には、多くの関係者が泊っていたそうです。
以前ヨークシャー地方に住んでいた私ですが、じつはハロゲイトの名前を知ったのはもっとずっと前のこと。それは1本の映画『アガサ愛の失踪事件』(1979年公開)がきっかけでした。この映画は、ミステリーの女王として有名なアガサ・クリスティが、夫の浮気に耐えかねて11日間失踪したときのお話を映画化したもので、このときのアガサの失踪先がハロゲイトでした。
映画の中で印象的だったのは、アガサを演じたバネッサ・レッドグレープとアメリカ人の新聞記者を演じたダスティ・ホプマンのダンスシーン。そして、アガサが浮気相手の女性を事故死させようとするシーンで登場した温泉施設の場面です。1920年代のイギリスは私の好きな時代でもあるのですが、この映画は、当時のハロゲイトへ温泉保養に来る人たちの様子を描いた貴重な映画だと思います。
ちなみに、1926年の失踪時にアガサが逗留していたホテルは「ハイドロ・パシフィックホテル」。現在の「オールド・スワン・ホテル」ですが、撮影もここで行われたそうです。但し、かつての面影が「オールド・スワン・ホテル」にはなかったため、監督と美術担当がホテルを1920年代のインテリアに改装したと言われています。
現在この映画はDVDなどもないため、テレビで再放送されるのを待つしかない状態ですが、アガサ・クリスティ本人はこのときの失踪事件について、後年語ることも書くことも一切なかったそうです。謎の多い11日間だからこそ、映画にもなったということでしょう。
【関連情報】
●ハロゲイトへのアクセス
ロンドン・キングスクロス駅から列車で2時間30分〜3時間。ヨーク経由、リーズ経由の2つの行き方があるが、ヨーク経由の方が最短。
スパ・タウン「ハロゲイト」の歴史
前回ハロゲイトを訪れた7年前は、ロンドン〜ハロゲイト日帰りという強行軍だったため、今回はヨークに1泊したのち、ハロゲイトにも1泊してみることにしました。旅の終わりにターキッシュバスで汗を流し、トリートメントルームでマッサージをしてもらい体をほぐして、ゆっくり過ごしてみたかったのです。ロンドンからのアクセスも、キングスクロス駅から列車に乗り、ヨーク(約2時間)で乗り換えれば、ハロゲイト〜ヨーク間は約30〜40分です。
同じ高級保養地のバースの街並みと雰囲気が違うのは、建物の色にも理由があります。ハチミツ色のバース・ストーンに対し、こちらはグレイッシュな暗めのヨークシャー・ストーン。街並みには、イギリスはもちろんヨーロッパ各地から上流階級の人々が温泉保養に訪れていたことを感じさせる、どこか優雅な雰囲気が残っています。今でもこの周辺の地方都市の中では所得の高い人たちが住んでいるといわれ、物価はやや高め。高級デリや高級レストラン、アンティーク・ショップもあり、町の中に広がる美しい庭園や緑豊かな公園がきれいに整備されていることからも、この町が豊かであることがわかります。
調べてみたところ、ヴィクトリア時代のイギリスには10個ほどのターキッシュバスがあったようです。もともとハロゲイトがスパ・タウンになったのは、1571年に薬効のある鉱泉が出たのがきっかけ。19世紀後半にはハロゲイト・ロイヤル・バスとして10以上の入浴施設と最先端の温泉療法施設を備えたバースと劣らぬファッショナブルなスパ・タウンでした。
ターキッシュバスは、1897年にオープンした温泉施設ですが、20世紀前半にはスパそのものが衰退し一時閉鎖されました。1970年代には建物の老朽化もあってスパを取り壊しカジノにする計画もあったそうですが、予算の問題でそのまま営業。2002年にこの施設に投資をしたいという企業が現れたことで、今のカタチに修復されました。現在も鉱泉はまだ残っているそうですが、保存のため使っていないそうです。建物は当時£596,700(約1億5千万円)の修復費をかけて大修復され、2004年7月にヴィクトリア時代の姿を取り戻しました。現在は「ハロゲイト・ターキッシュバス&ヘルス・スパ」として営業し、サウナ部分のほか、マッサージやフェイシャルなどの施術を行うトリートメントルームも併設されています。
【関連情報】
●ハロゲイトの旅行情報
●英国政府観光庁のサイト(日本語)
ベティーズ・カフェ・ティールーム
もともと保養目的で建てられたホテルや美味しいレストランが多いハロゲイト。1919年創業の「ベティーズ」と呼ばれるティールームがあることでも有名です。ちなみに、ベティーズは、ヨークにも支店があります。
以前訪れたときも、ランチがとっても美味しくて、さらにスイーツを追加オーダーしているうちにもっと食べたくなり、やむなく打ち止めた経験があります。「イギリス料理はまずい」と言っている人たちに、ぜひこの店に行って欲しいと思います。
今回は、久しぶりにアフタヌーンティーをいただきましたが、昔は午後2時からと決まっていたアフタヌーンティーも、現在は朝から晩まで楽しめるそうです。人気が出てしかたがない面もあるとは思いつつ、ちょっと残念な気もしました。ちなみに、ロンドンの高級ホテルのアフタヌーンティーよりも、お値段は£18.75とぐっとリーズナブルです。
ベティーズの魅力は、洗練された味と素朴な味わいの両方を併せもち、さらにヘルシーなメニューも用意されていること。もちろんショップの方には、紅茶やコーヒー、ケーキや各種スイーツ、パンも充実しています。サロンでは、ケーキをのせたトロリーを席まで持ってきて選べるように直接見せてくれるサービスもありますので、じっくりケーキを選べます。
【関連情報】
●ベティーズ・カフェ・ティールームBettys Café Tea Rooms
ヴィクトリア時代の雰囲気を再現したターキッシュバス
ベティーズのアフタヌーンティーで腹ごしらえができたところで、私は、同じ通り沿いにあるターキッシュバスへ向かいました。行く日を火曜日に合わせたのは、翌日朝に行われる建物ツアー見学にも行きたかったのと、火曜の夜は、レディースオンリー(女性のみ)の日だったからです。
ベティーズからゆるやかな下り坂を3分ほど歩くと、すぐにターキッシュバスの入口へ到着します。ハロゲイトは小さな町ではないため、旅の目的地の2つが超近距離というのは、ちょっとありがたかったです。ただ、入口はちょっと小さめ。「裏口みたい」と思っていたら、実際昔は裏口だったようです。この建物が改修されるときに他の施設も造ったため、以前使われていたゴーシャスな正面玄関は、今はレストランになっています。
中に入るとイタリア製のモザイクタイルの床とヴィクトリア時代に流行った色鮮やかなステンシルの天井が目の前に広がります。
内部は、ロッカールーム、チェンジング・コンパートメント(1人用更衣室)、リラックスルーム、ミストサウナ、プランジプール(冷水プール)、ホットルーム(45℃、55℃、70℃の3種類の温度に分かれたドライサウナ3室)に分かれています。トルコでは「ハマム」とよばれるこのターキッシュバスですが、簡単に言うと「サウナ」のことです。以前ご紹介したバースの「サーメ・バース・スパ」と比べると規模は小さく、温泉プールもありません。
チェンジング・コンパートメントで着替えをしましたが、重厚なオーク材が使われており、歴史を感じさせます。これは当時のものを修復して使っています。このターキッシュバスは、ミックスの日(男女一緒の日)は水着必携ですが、女性専用の日は水着を着用しなくてもOKですので、さらにリラックスできるかと思います。
まず、お湯シャワーで体を軽く流した後、ミストサウナへ向かい、もくもくした蒸気の中で約15分。それほど熱くないので快適です。その後、いったん水シャワーを浴びますが、お湯シャワーもあります。ただ、水シャワーの方が体が引き締まりますね。
水シャワーを浴びた後は、いよいよホットルームへ向かいます。最初に一番マイルドな温度の部屋へ入りましたが、あまり熱さを感じなかったため、さらに奥の気温55℃の部屋へ移動。この部屋にもステンシル画が天井に描かれていました。
この2番目に熱い部屋に15分ほどいると、体から汗が出てきたので、水を飲んでから、いったん水シャワーを浴び、一番熱い70℃のホットルームへ移動。ただ、一番熱いといわれるほど、私には熱く感じませんでした。これは私が、韓国の汗蒸幕(ハンジュンマク)で鍛えられているせいだと思います。ホットルームは、サウナといっても、いわゆる日本のサウナとは違い、狭い木箱のようなものではなく、天井は高く広々とした空間ですので、圧迫感はまったくありません。とても過ごしやすいです。
私は、ミストサウナ→温冷水シャワー→3段階のホットルーム(サウナ)→冷水プールを繰り返し、体が温まったところで、トリートメントルームへ向かいましたが、マッサージなどのトリートメントを受けない場合は、最後にリラックスルームで一眠りするなどし、トータルで3時間ほどのんびり過ごされることをおすすめします。
サウナが苦手の人の場合は、ミストサウナだけでも気持ちがいいと思いますが、デトックス効果を考えると、ミストサウナだけではやはり不十分。ホットルームのドライサウナを使った方が効果は倍増です。私も今回は冷たくて一度しか入れませんでしたが、冷水プールへもぜひ入って欲しいです。「ミストサウナ→ホットルーム(サウナ)→冷水プール」のサイクルを何度か続けることで、体の新陳代謝が非常に良くなります。
【関連情報】
●ターキッシュバス&ヘルス・スパ Turkish Baths & Health Spa
※スパ・セッションのみの利用は予約不要。トリートメントを受けたい場合は要予約。
ターキッシュバスの館内見学ツアー
私がこのターキッシュバスに初めて来たときに一番驚いたのは、内部の華麗なインテリアでした。スパとしての規模はヴィクトリア時代よりも大幅に小さくなっているそうですが、いにしえのターキッシュバスの雰囲気を忠実に守ろうと改修されたことがよくわかります。また今も実際に毎日利用されているということが素晴らしいですよね。日本人だったら、たぶん修復したとしても、博物館にしてしまうと思います。
入口からレセプションに向かう通路に、このターキッシュバスのオープン当時の写真が展示されていました。中には、これが健康的?と思うような怪しげな施術もありましたが、水圧マッサージや硫黄の泥トリートメント、今のヴィシーシャワーに似た設備、かけ湯、ホースでお湯をかける(これはタラソテラピーセンターで現在も行われています)など、さまざまなウォータートリートメントが行われていたことがわかる写真です。
これらの古い写真は、それまでの私のイギリス人のイメージを覆すものでした。というのも、「イギリス人はお風呂にはあまり入らず、入っても短時間。ほとんどの人はシャワーですませる」といった印象が強かったからです。ヴィクトリア時代に、すでにイギリス人が「ウォータートリートメント」の健康効果を知っていたということは、大きな驚きでした。
実際、ヴィクトリア時代にハロゲイトを訪れるイギリス人たちは、お風呂(サウナ)の効用に並々ならぬ関心があったようです。多くの人は2〜3週間逗留し、ターキッシュバスに入り、飲料用の硫黄鉱泉水を嬉しそうに飲んでいたといいます。
ただ、彼らは決して健康オタクだったわけではないと思います。ヴィクトリア時代、こういったスパに通うことが「オシャレ」であり、「最先端の休暇の過ごし方」だったのではないかと思うのです。
今回、ターキッシュバスの建物についての説明を聞きたかったため、毎週水曜9時〜10時に実施される館内見学ツアーにも参加してみました。ターキッシュバスの歴史をひもとくお話はとても興味深く、中級レベルの英語がわかる方にはおすすめです。
必見は、修復前にはペンキが塗られ、見る影もなかったリラックスルームの天井にあるステンシル画です。これは当時の写真をもとに復元されたもので、写真は白黒だったものの、ペンキの下から現れた当時のステンシル画をやっと見つけ出し、色を確認する作業を行ってから復元したそうです。またリラックスルームのモザイク床も当時と同様のイタリア製タイルを、わざわざイタリアから職人を呼んで作らせたといいます。
さらに内部のステンドグラスや冷水プールのタイルにも注目です。特に冷水プールのタイルは、イギリス陶磁器のトップメーカーであるウエッジウッド製であることがわかり、柄のパターンも忠実に再現しながら、一つ一つ手で修復しています。ただ、ウエッジウッドにはどうも頼めなかったらしく、別のメーカーのもので作っています。実はヴィクトリア時代、ウエッジウッドは一般用のタイルを製造していませんでしたので、このターキッシュバスのためにタイルだけ製造したというのは、歴史的にも貴重な話です。
この施設の中でも、保存状態がほぼ完璧だったのは、ホットルーム(ドライサウナ)の部分でした。真鍮のシャワーは少々古びていたので、これは修復したのかな?と思ったのですが、どうも当時のままのよう。もちろん、水回りのパイプなどはすべて新しくしているのでしょうけれど、見える部分は昔のままというのは、さすがイギリス!という感じです。
こういった歴史的な建物を修復するための努力を見ることができ、保存することにこだわるイギリスらしさも感じられる「ターキッシュバス」。有名なベティーズ・カフェ・ティールームは徒歩2〜3分の距離です。アフタヌーンティーとお買い物だけでロンドンに戻るには惜しい場所があることをお知らせしたくてご紹介しました。本当は1泊ではなく、2〜3泊して、ゆっくり過ごしたい町ですね。
【関連情報】
●ターキッシュバス&ヘルス・スパ Turkish Baths & Health Spa
※スパ・セッションのみの利用は予約不要。トリートメントを受けたい場合は要予約。
木谷 朋子
『留学ジャーナル』の編集者を経て1989年より2年間イギリスへ留学。帰国後はイギリスを始め、ヨーロッパ各地やアジア、オーストラリアなど、世界各地を取材。海外の旅文化や最新の旅行情報、語学、留学をテーマに幅広い分野で執筆活動を続ける。イギリス関係の著書:『英語で楽しむピーターラビットの世界BOOK1、BOOK2』(ジャパンタイムズ)、『英国で一番美しい風景 湖水地方』(小学館)、『ロンドンと田舎町を訪ねるイギリス』(共著・トラベル・ジャーナル)、『イギリス留学』(共著・三修社)ほか。