マレーシアの古都マラッカは、2008年にペナンのジョージタウンとともにユネスコ世界遺産に登録されました。15世紀以降、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民支配を受けつつ、中継貿易の拠点として栄えたこの街には当時の面影を残す建築物が多数残されています。一方、中国からもビジネスチャンスを求めて多くの人々がこの地にやってきました。彼らは、現地の女性と結婚し、その子孫はマレー文化と中国文化を折衷し、さらに国際都市となったマラッカでヨーロッパやインドなどの文化も吸収し独自の文化を築き上げて行きました。この人々はプラナカンと呼ばれ、現代でもマラッカを始めペナン、シンガポールなどで彼らにまつわる文物を目にすることができます。
2回にわたってマラッカの代表的な観光スポットをご紹介したいと思います。マラッカの街は、マラッカ川を境に東西に分かれており、東側は植民地時代の面影を残す建物が多く残り、西側は中国式のショップハウスが建ち並びプラナカン文化の影響を色濃く残しています。1回目は、街の東側にあるスポットをご紹介します。
マラッカというとこの風景を思い浮かべる人が多いと思います。
18世紀、オランダ統治時代に建てられたキリスト教会を中心に噴水や時計台が並ぶ「オランダ広場」です。まさにマラッカの街の中心に位置し、観光のスタート地点になる場所です。ピンク色の壁が印象的ですが、オランダ統治時代は白く塗られていました。イギリス統治時代にピンク色に塗り替えられたのですが、理由ははっきりしていません。
オランダ広場にはトライショーがたくさん集まっています。派手な飾り付けのものが多く、観光客を楽しませてくれます。
オランダ広場の横には、スタダイスというオランダ植民地時代に市庁舎として建設された建物があり、その裏手にセントポールの丘という小さな丘があります。小道を登っていくと、すぐにセントポール教会が見えてきます。
セントポール教会は、オランダ統治下の16世紀に建立され、現在では煉瓦で作られた部分だけが残されています。
教会の前には、フランシスコザビエル像が立っています。この像には右手がありません。ザビエルは中国で殉死した後、一時この場所にその遺体が安置されていました。その後、インドのゴアに移されましたが、右腕だけは切り落とされローマ法王に届けられました。ちょうどその時、落雷でザビエル像の右腕が砕け散ったと言われています。
セントポール教会の内部です。今は廃墟となっていますが、なんとも言えない趣があります。
セントポール教会からは、マラッカの市街を一望することができます。
円盤状の展望台が回転しながら80メートルの高さまで昇って行く「マラッカタワー」が見えています。
セントポールの丘を、スタダイスとは逆の方向に下りて行くと、「サンチャゴ砦」に到着します。15世紀にマラッカを植民地としたポルトガルが最初に築いた要塞です。当時は、セントポールの丘を囲むように要塞が築かれていました。今では門のみが残されています。
サンチャゴ砦のすぐ横にある、伝統的なマレー建築は「マラッカ・スルタン・パレス」です。植民地となる前にあったマラッカの王宮を後に再現したものです。
マラッカ・スルタン・パレスの内部は文化博物館となっています。
人形を使ったジオラマ展示や当時の様子を物語る品々が展示されています。
写真は、当時の王の間を再現したジオラマです。
建物自体の様子を観察するだけでも十分に価値があります。
左にサンチャゴ砦、丘の上にセントポール教会、右奥にマラッカ・スルタン・パレスが見えています。この場所にトライショーが集まってきます。オランダ広場からトライショーに乗ってここまで来て順番に見て行くのもいいでしょう。
最後にもう一か所ご紹介します。オランダ広場から北に少し上がったところにある「セント・フランシス・ザビエル教会」です。1849年にザビエルを追悼するために建てられた教会です。
教会の敷地内に鹿児島出身でザビエルに日本行を決心させたヤジローの像がザビエル像と共にあります。日本人で初めてキリスト教の洗礼を受けた人と言われています。
阿部 吾郎
24年間旅行会社に勤務した後、2013年に独立し「トラベルガイド株式会社」を設立。「人がそこに行きたくなる写真」をテーマに国内外で写真撮影を行っている。同社が運営するマレーシアの旅行情報サイト、トラベルガイド・マレーシアにも自身で撮影した写真が多数使われている。その他、旅行写真素材の販売、旅行記事の執筆、旅行会社へのコンサルティングなどを手掛る。最近はマレーシアに年4~5回程度渡航。その他、旅行会社時代の経験も含め得意な方面は、台湾、香港、マカオ、シンガポール、アイスランドなど。